日記
私は5年日記を書いていて、今4年目に差し掛かっているのだが、たまに当日の分を書き終えた後にダラダラと過去に書いた日記を見返すときがある。
ちょうど去年の5~7月ごろに転職活動をしていて、そのときの日記を読んでいたら懐かしい気持ちになってきた。
5月のAWS Summitで当時いた場所とはあまりに違う世界にびっくりして、こんな世界に飛び込んでみたいと思ったこと。転職活動を始めたけど、自分のアピールポイントが見つからなかったり、面接がうまくいかなかったりして苦しい思いをしていたこと。第一希望の企業から内定をもらって嬉しかったこと。頑張って成長したいと思ったこと。そんなことが生々しい言葉で書かれていて、ちょうど入社6ヶ月経って色々思うことのある現在の自分と比べて、混じりけのない感情に痛々しさを感じた。
その第一希望の企業で今働いているのだけど、あぁもう嫌だなんて思うことはしょっちゅうで、特に入社直後はひどかった。自分の居場所などないし、人のコードがここまで読めない自分は本当にスキルが底辺でどうしようもない、みんな私なんて採用したことを後悔してるに違いないって思っていた。まぁそれは今もそうなんだけど、やはり時間の経過とともに少しずつ慣れというか…文化とか、わかってきて、他のメンバーに対して今も負い目はあるけど、足手まといにはなっていない…と…思う、ぐらいには思えるようになってきた。
内定をもらって飛び上がるほど喜んだ気持ち、拾ってくれた会社で成長して頑張ろうと思っていた気持ち、そういうのを忘れていたなーとちょっと反省。最近はまたかなりモヤることも色々あるけど、自分を見失わずにやるべきことをやっていきたい。
1年前とか、2年前の自分が何をしていて、何を考えていたかわかるので日記は良いものだ。
多様性
今の世の中、多様性が重んじられている…と建前上はそうなっている。でもその中には重んじられるべき特性と、重んじられるべきでない特性がある。
例えば、「よく考えずに行動する」という特性は良くいえばフットワークが軽い、悪くいえば突っ走りがち。でもその特性自体に善悪はなくて、状況によってプラスに働くかマイナスに働くかが決まる。だからこういうのを重んじることは多様性の観点からいっても間違っていない。
でも「人が傷つく言葉を平気で言う」というのは、特性自体に善悪がある。どういう状況であっても人が傷つく言葉を平気で言うことがプラスに働くことはない。そういう特性は多様性だからといって重んじられる理由はなくて、短所として改善すべきもの。
そこでどんな特性を多様性として重んじるか、どんな特性を受け入れないか、それは組織やコミュニティによって変わってくる。もしも私が改善すべき特性を持っているのならば、それは私の責任であって、そのために組織に受け入れられないとしても当然であると思わなければならない。しかし、多様性という言葉でカバーできる特性なのに、組織にとってはそれを改善すべき特性だとみなして、そのために組織に受け入れられないとしたら…多様性とは何だろうかと考えざるをえない。