自分の言葉で話す

情報過多の社会だ。インターネットを開けば他人の発信する情報が嫌というほど流れてくる。

そんな時代で、自分の言葉で何かを語る機会はどんどん失われているのではないかと思う。

例えば、Yahooニュース。ある記事を読む。コメント欄を見ると、誰かが述べたもっともらしい意見が大量についている。それらを読みながら「そうそう、わかる!」と心の中で同意し、いいねボタンを押す。あたかも自分がその意見を述べたかのような錯覚に陥る。

だが、コメントを一切見ずに記事に対する意見を書いたとして、いいねを押したコメントと全く同じ文章ができあがるわけではない。結局は、他人の意見に対して「わかる」「わからない」の判断を下しているだけで、自分の頭からは何の言葉も生み出していない。

他人の意見に対して「わかる」「わからない」ということは非常に簡単なのだ。しかも、そう判断を下すことで、あたかもその意見が自分の意見であるかのように錯覚できる。自分が記事に対してそういう意見を抱いたのだ、と思い込むことができる。自分の言葉で意見を述べるのはそれよりも難しい。言葉を選んだり、文章を組み立てたり、賛成するにしても反対するにしても筋の通った論拠を考えなければならない。自分の頭の中から何かを生み出すということは、とてつもなく恥ずかしく、痛みを伴う行為でもある。だから、他人の意見に同調するという簡単な方法に流れる。

そうするとどうなるか。自分の頭の中が、他人の意見で埋め尽くされてしまう。自分で考えずに、考えることを他人に委ねてしまう。自分の頭で考えることをやめ、誰かが考えた結果を拝借するだけなのであれば、自分というものが存在する理由は何だろうか。人それぞれ自分なりの考えを持っているはずで、その考えこそがアイデンティティを作り出すのではないだろうか。自分の言葉で話すことをやめるということは、アイデンティティを失い、自分が他の誰かに乗っ取られるということと等しい。

自分の言葉で語るのは恐い。痛みを伴うし、うまくできるかどうかもわからない。でも自分が自分であるために、自分の生み出したもので脳内を形作っていきたいと思う。

正しい日本語を使おう

正しい日本語を使ってほしい。

別に私もそこまで厳密なことは言わない。私もあえて崩して日本語を使うこともある。「全然大丈夫」なんかは、もうそういうものだと受け入れた。

でも「やらざる負えない」は許容しがたい。これを「時代の流れで言葉は変わるもの」という理由でスタンダードにしたくない。

そもそも「負えない」と誤用している人は「負えない」を一体どういう意味だと解釈しているのだろうかと思う。

意味を考えれば、「やらないという結果」を「得ることはできない」、で「やらざるを得ない」以外の変換方法などないはずだ。「やらざる負えない」は一体どういう解釈でそうなるのか聞きたい。

以前はこんな間違いはほとんど見かけなかった。が、最近やたらとこの誤用が目に付くようになった。

あとは、「報告すること」を「報告する事」と書くのもおかしい。最後の「こと」を打って変換キーを押すとき、何を考えているのか問いただしたい。

こういったものを見かけるたびにモヤモヤするし、かといってビジネスシーンで指摘するわけにもいかず(部下とかならまだしも)ただモヤモヤとする感情を抱えることしかできない。

お願いだから日本語は正しく使ってほしい。